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千々石ミゲルのこと。

更新日:8月12日

2025年8月10日


小学6年生当時の話をもうひとつ。当時日本史の授業で習ったのが「天正遣欧少年使節」、織田信長から豊臣秀吉に至る戦乱の時代の中、ローマ教皇に謁見するために派遣された4人の少年達(肥前有馬[現在の長崎県南島原市]のイエズス会の神学校【セミナリヨ】で学び洗礼名を名乗った伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ)のことを指す。千々和(ちぢわ)という名はとても珍しい姓だが九州において最も多いのは千々石と表記する方でスマホの漢字変換でも先ずこちらが出てくる(他に千々岩、千々輪もあり)。だから数十年来の知り合いであっても「千々石くん元気ー?」などというメッセージが来たりする。初めて会った方から千々石ミゲルについて言及されるのは稀で、それも主に年配の方だ(近年は歴史の授業で教えないのだろう)。同じ「ちぢわ」という名前で大いに興味はあったが伝記を紐解くようなことはせず詳しいことは何も知らぬまま、ただ使節団の渡欧中秀吉によってバテレン追放令が発布されるなど情勢の変化とともにミゲルは神学への熱意を失って棄教(四人の中で唯一)し、晩年は隠遁生活を送ったというようなことを高校の日本史の教官から意地悪な物言いで教えられた程度で、あとは墓所とみられる石碑が見つかったというニュース(2003年)を見た記憶があるぐらい。長年にわたって千々和家の出自には何ら因果関係はないものだと思い込んでいた。


ところが最近、千々和で検索すると苗字由来netというサイトでの紹介文に「千々石と同様ともいう。現佐賀県と長崎県である肥前高来郡千々石村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)長良有馬氏族。「和」は輪のような地形を表す」とあるではないか。え、やはり長崎の千々石が出自なのか!これは興味津々だ。

そんな中で、これもたまたまBSでNHK長崎制作の「ヤマザキマリ✕歴史ミステリー 世界を見た若者たち」を見た。今年(2025年)2月に本放送、5月にBSで再放送され、これがBSでの二度目の再放送だったようだが内容は驚きの連続(前半20分程見逃してしまった、残念!)で、使節団が大きな歓迎をもって迎えられたこと、現地カトリック教会の総本山であるバチカンにとっても歴史的な大事件であったことを知り息をのんだ。遥か東方の小国にまで布教が及んだ事実が協会の影響力を世界に誇示する材料にもなったということも実に興味深かった。歴史に翻弄され波乱の生涯を送った少年たちについて、もう一度学び直す必要があると改めて感じた(再放送熱望!!)。

そして今回の視聴をもとに再度調べてみると、件の石碑発見から端を発して「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」なるものがミゲルの子孫である浅田昌彦氏が中心となって2014年から2021年まで発掘調査を行い、昨年12月に千々石ミゲルの墓所(長崎県諫早市多良見町山川内字ケンノキ59)が諫早市より正式に文化財として指定されるに至った、とある。この史跡指定に伴い今年3月には周辺の案内看板も「千々石ミゲル終焉の地」と書き換えられたとのこと――何という壮大な歴史物語、何というロマンだろうか!墓所からはミゲルの妻が身に着けていたロザリオと見られる副葬品が出土したことでミゲルが最後まで信仰を保っていた可能性(潜伏キリシタン)も浮上している。棄教者として白い目で見られ不遇の晩年を過ごした彼の史実が一つでも明らかになることは大きな意味があるはずだ。涙が出るね・・


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