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「Radio Taiso/肉体疲労児」。

更新日:2021年8月10日

2021年8月8日


個人のウェブサイトを立ち上げてから実に22年、HTML形式の日記を経てブログに移行して16年。これまで折に触れて記事にアップしてきたものの動画を公開したことは一切なかったちぢぃー高校時代の幻の演奏(地元ローカルのバンドコンテストに出場した際の映像)を、35周年を迎えるこの日、ついに本邦初公開!!・・というとまるで凄い事のように聞こえるかもしれないけど、何のことはない、ビデオキャプチャの作業をする機会がずっとなかっただけのことで、しかもその内容はどちらかと言えば黒歴史に近いものだったりして(笑)、実のところ胸を張ってどうだ!と言えるシロモノではない(いや、これほんと)。この模様は当時深夜1時からフジテレビ系列で放送されたんだけど、自分が出ていることを知らない先輩をして我がバンドの事を「あれ、一番ヘタなバンドやったなあ」と言わしめた、いわく付きの演奏。少々解説すると、フロントマンであるボーカルに難ありというのはメンバーも認識していたため、短いサビ以外がすべてラップになっているのは苦肉の策だったのである(そのサビも本来歌わせない段取りだったのにここでは思わず口ずさんでしまっている)。

しかし応募総数1313本から横浜西公会堂で行われる予選に出場する55組、横浜スタジアムの決戦大会に出場する18組に勝ち残ったのだから世の中わからない。さるスタッフの言によれば、正統派バンドの中に賑やかしバンドが必要だというバランスの問題で残されたとの話だったが、理由はどうあれ爆風スランプコピバンとして鍛えたコミックバンドの面目躍如。予選大会出場の全バンドにはエントリー曲の演奏の前に「平和」をテーマにした1分程度のイメージソングを自作して披露するという課題が与えられたのだけど、それをベタな演歌調に仕立てて浴衣に番傘という衣装で歌ったのが大ウケで、これで勝ち進んだようなものだ。レディオタイソウというので巨大な出席カードの看板を背負い、メンバーは体操着を模して短パンに白シャツというスタイル(自分は一人シャツを忘れて水玉模様の私服)。曲調とは裏腹にケンカばかりしていて実行委員にはいつも「あんたたちホント仲悪いね」と言われていたけど、まあとにかくこの年(1986年)はこのエントリー曲を何度もスタジオに入って飽きるほど練習したこと、今となっては懐かしい想い出なのであります。コンテストの仕掛人、スリーベースカンパニーの山本進一社長(当時)(元・寺内タケシ&ブルージーンズのドラマー)からは大舞台に立てる栄誉?と引き換えに「一バンド当たり500人は動員しろ」という無茶振りをされても友達リストを作ってローラ―作戦のように健気に歩き回ったものでした。結果、グランプリもベストプレーヤー賞も逃したけれど晴れてエンターティナー賞を受賞、欽ちゃんのチャリティー・ミュージックソンにチラリと出演したり横浜そごう屋上での受賞記念ライブに出演したり、予選大会で一緒だったSea-Sideとのジョイントライブ、決戦大会でご一緒したびっくりしたな、もう(真心ブラザーズの桜井秀俊さんがリーダーのバンド)とステージで共演するなど、一七歳でこれほどまでの刺激的な経験をしてしまったのが最後、俺は芸能の世界で生きていくんだ!という思いを固めてしまったのだから罪作りなコンテストだったわけで、紆余曲折を経て現在自分はバンドマンではなく声優になっているのだけど、一応、初志貫徹はしているよね。35年前の夏――キミは何をしていたかな?!





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