2021年3月10日
たらればの話で、もし過去に戻れるとしたら?という質問を受けたとすれば、戻りたい頃は無いと答えるだろう。楽しい経験はその時の素晴らしい想い出だし、後悔するような失敗や苦い経験などはどうあっても消せるはずもない。すべての辛苦を乗り越えて現在があるわけだから、昔を懐かしんで感傷的になることはあっても、あの時は良かった、もう一度あの頃に戻りたい、などという考えは起きない。そのかわり、忘れてしまいたい、なかったことにしてしまいたいということが一つだけあって、それが、中学生から20代前半にかけての恋愛の記憶。純粋と言えば聞こえはいいが、すべてがあまりに幼く、子供じみたもの。お互いに惹かれ合ったのはほんの短い期間、だからと言って付き合ったわけでもなく、濃密な交流があったわけでもなく、恋人同士という関係ではなかった。中学卒業とともに別々の道に進み再び顔を合わせたのは19歳の時。過去の思い出に未練がましくすがる者と、もはやその頃の記憶を忘れ去って生きている者とで、どんなに同じ時間を過ごそうとも、かつて二人を優しく包んでいた甘美な関係性がもう一度甦るはずもない。惨めなまでに追いすがりながらも、(これは次の春がめぐって来る時に終わってしまうのだ)ということを、心の中で予見していたのだった。ほぼ毎日、顔を合わせる日々が半年ほど続いた。恋い焦がれる思いが募りに募った人と一緒の時間を共有できるだけで、まるで夢の中にいるような気分を感じながらもこれは終わりに向かっているのだという思いが強まるばかりで暗い気持ちになった。実際、秋口に「春になったらまた会いましょう」と言い合って距離を置いたが、再会の場で言葉を交わすことは一切なく、改めて掛かってきた電話では自分に対する非難の言葉を聞くのみだった(この誤解だけは自分が死ぬ前に何としても解きたい、と今なお願い続けている)。
数年後、一度だけ再会する機会に恵まれたもののその際は全く違う目的での対面だったため誤解を解くことは出来なかった。あれから26、7年は経つのだろうか――一切の音信は途絶えたまま、二度の同窓会で会うこともなく、彼女がどこでどのように日々を送っているのかは知る由もない。知りたいが、知ったところで何になるのだろう。恋愛感情などはないのよと何度も言われながら自分の思いばかりを押し付けていた人間に、今さら会いたいと思う事などあるはずもない。いじましく付きまとっていた自分はただ迷惑に思われていただけだと考えるとますます情けなく、あの時のあの記憶を消してしまいたい、なかったことにしてしまいたいとずっとずっと思って生きてきた。出会った頃の楽しかった想い出だけを残して、それ以外は何もなかったことに出来ないものかと。いつかお互いの人生を終える時が来て、自分は彼女に嫌われたままこの世から消え去る。それは何とも寂しい。とても寂しい――。
でもすべては取り返しのつかないことで、仕方のないことで、どうすることも出来ない。
音楽の事や演技のことについては雄弁に語ることはできるが、こと恋愛に関してはこの程度の経験しかないのだ(専門学校卒業後に付き合って結婚したのが現在の妻)。自分の中の、思春期における様々な煩悶や葛藤で心を痛めたほろ苦い恋愛の記憶はこれがすべて、これだけしかないのだ。誰のどんな経験談よりも不格好で、みっとなく、誇らしく語れることなど出来ない過去。そして年齢を重ね、いつかどこかでもう一度顔を合わせた時、そんなこともあったねと笑って語りあえるような思い出では決してないこと。心ならずも深く心を傷つけてしまった、ただひたすら嫌な思いを味わわせてしまった大好きな人。それゆえに、この話はなかったことにしよう、そう独り決めしたのだった。未練を断ち切るために、中学の頃に貰った手紙やプレゼント、再会の時にやり取りした膨大な書簡や写真に至るまで、すべて捨ててしまった。だからもう、かすかに残っているのは自分の記憶の中の彼女の残像だけ――
もう思い出すこともないと思っていた。
それなのに。
窓際のロッキングチェアで微睡んでいたある日の午後。
夢うつつの中で、唐突に僕の目の前に君は現れたのだ。目の前に君の、懐かしい君の姿があった。あの時と変わらない笑顔・・・そう、その笑顔、君は笑っている。一体場所はどこだろう?もう一人、中学時代の同級生のTくん。彼女は彼との再会を望んでいたようだったけど、興味なさげにじゃァ俺は行くから、とつれないTくん。彼女が彼のことを好いているなんて、そんな話あったっけ・・・彼が立ち去って、あーぁ、仕方ないなあ、と笑っている彼女。と、いつしか僕は彼女と手を絡ませ合っている。彼女は微笑んだままだ。周囲の仲間がおいおい!と突っ込んでいる。特に言葉を交わすことはなかったけれど、お互いがずっと昔から良く知っていて、何を言わなくても心は通じ合っている存在だと認め合っている、そんな空気の中にいた。少し眠くなった様子の彼女は、僕の座っているロッキングチェアの隣に座り、うとうとと微睡み始めた・・・
彼女が夢の中に現れたことは過去にもあったと思うけど、ほとんど記憶にないし、常に手の届かない遠い存在であることは現実の世界と同じだった。それが何故、しかもこんな年齢になって、なぜこのタイミングで、古い古い記憶の中の人が眼前に現れたのか・・・夢に理屈などあるはずもない、深い意味もないだろう。でも、彼女と一緒に笑い合うなどというのは一体何年ぶりのことだろう。手を繋いだことなど一度たりともなかったのに、ごく自然に、彼女と手を握り合っていた。夢だとは言え、これまでどう望んでも見ることが叶わなかったあり得ない光景が眼の前にあった。それだけで胸が一杯になった。いくら忘れてしまいたいと思っても、過去は消せない。捨て去ることはできないんだ。どこをどう取っても美談にはならぬ苦々しい思い出でも、現在の自分を形作っている大切な記憶なのだ。自分が傷つけてしまったもの、壊してしまったものは、これからもずっと向き合っていかねばならぬのだ。
(こうして夢の中で、もう一度彼女に会わせてやったのだ。それも、もう何もぶつかり合うこともなくおだやかな時間が流れて、君が望みうるこの上なく理想的な形での再会――これ以上何かを求めるのはやめたまえ。互いに違う人生を歩み、家族もあるのだ。忘れるのだ。この夢を思い出の代わりに胸にしまって、残りの人生を歩いて行きなさい。それが君のためなんだよ・・・現実を受け止めなさい。)僕はもう、君に会うことは出来ないのだろうか?
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