Hot Wave Festivalの想い出③:パーティーズ・オーバー
- Ryusaku Chijiwa

- 7月16日
- 読了時間: 3分
更新日:7月20日
2026年7月16日
ホットウェーブに参加するにあたってはいくつかの媒体でバンドの紹介をされた。手始めにオリコンに写真が掲載、「いんぐりもんぐりのオールナイトニッポン」で出場バンド名を、決戦大会の演奏はフジテレビで深夜に放送され「ヤングオート」「ポップティーン」ほかでその様子が記事となった。受賞バンド(エンターティナー賞)としてヤマハのマルチトラックレコーダーMT4Xをを商品として授与され、予選大会での演奏が電話サービスで聴けるという展開にもなった。ラジオ特番「欽ちゃんのチャリティー・ミュージックソン」関連のイベントで横浜そごうのサテライトスタジオで行われたa-haのVTRライブの前説(笑)として出演、また受賞記念バンドライブでは数曲を演奏。翌年春の「HotWave祭」のライブ出演ではVol.8に応募する新曲も披露した。地元である横浜市緑区の「ヤングフェスティバル」に出演、また出身中学校のバザーイベントでも演奏するなど肉体疲労児としては活動のピークにあった。しかし翌1987年、連続出演を狙って意気揚々と応募した「悪い子になろう!」がテープ審査で落選、SMB(サンチェーン・ミュージック・バトルロイヤル)でも選外となって意気消沈、大学受験シーズンとも重なって練習量も激減し88年3月にライブハウスに初出演するもかねてより良好でなかったメンバーの人間関係も険悪となり、オリジナルメンバーでの活動はここで終了。ギタリストを代えキーボーディストを加えた「肉体疲労児セピア」として一度、「Midnight One」と改名して二度のライブを行い、1990年5月の高円寺LazyWaysの演奏をもって自然消滅した。
その後自分はミュージック・スクール「メーザー・ハウス」に入学するも実力の無さを痛感して挫折、浪人生活を経て専門学校へ。軽音楽部でのバンド活動に熱中するもドラムで身を立てるのは不可能と考えて在学中から声優を志し東京演劇学院声優科に通い始め、紆余曲折を経て1998年東京アナウンスアカデミー卒業時に同人舎プロダクションのオーディションに合格、2003年にマウスプロモーションの附属養成所に転じるとともにアニメレギュラーでデビューを果たし、今日に至る。音楽で果たせなかった雪辱を役者で果たしたのだ。
久しぶりにじっくりと振り返りました。しかし高校二年生の時に立て続けにこれだけの経験をしたのだから、それが原体験になってしまうのも無理はないよね。だからホットウェーブというのは返す返すも罪作りなイベントだったなと思うのです。エンタメの世界の楽しさを覗いてしまったがために、もう戻って来られないという感じで。プロのミュージシャンにはなれなかったけど声優になったのだから、結局原点にあるのは「人前で何かを表現したい、目立ちたい」という単純な理由だと思うのです。あと数年で還暦、そういう人生なんだね。
40周年としての連載企画、長々とお付き合いいただきありがとうございました!
第7回大会のパンフレットより。

立東社「PRUM」1987年7月号(ホットウェーブの約一年後)に掲載されたタイアップ広告記事。文中の曲名は正しくは「シナビタドリンク」。チオビタドリンクに因んだものだけど、リポビタンに寄せられてしまったんだねえ(笑)写真は受賞記念ライブ時のもの。





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