知らなかったでは済まされないこと。

更新日:3月21日

2021年3月17日


長く続けているこのブログにおいて、時々念押しするように書いているのが「ここにおいては極力、時事ネタは扱わない」ということ。平易な文章であっても、それなりに頭を悩ませつつ構成を考え完成品として公開するわけで、極端に言えば一つの作品。歳月を経て読み返しても普遍的に読み物として楽しめなければならぬという思いがある。いくら流行り物でも廃れてしまった時に人々の記憶に残っていないほど他愛のない事柄であれば書き残してみたところで後になって読んだ人は何のことやらさっぱり分からないという事態に陥る。それを出来るだけ避けたいのだ(まあ時にはあえて書いたりもするけど)。だから政治や経済などもとより国際、社会一般の話題はほとんど避けて、自分の身辺に起きた些末な出来事を日々黙々と書き綴っているのだ。だから、そうした原則から外れて自分がここで時事問題について書くという時は相応の意味があり、書くべきなのだという意思の表明だと捉えて欲しい。


先日、テレビのニュースバラエティの中でさる芸人が披露したネタにアイヌ民族を傷つける表現があったとして各方面に波紋を呼び、当該の芸人をはじめ局側からも謝罪コメントが発表されたものの多くの市民団体や政党から抗議や申し入れが相次ぐ事態となっている。事の発端となった場面は生放送ではなく事前に収録されたもの。そうなるとチェック体制の問題が指摘されるところなのだろうが、現場に居合わせたであろう多くのスタッフ誰一人として問題意識を抱かなかったというのは情けない限りだ。声優の仕事においても、台詞を噛んだり読み間違えればその場でリテイクになるが、アクセントの間違いや状況に応じた使い分け(一般的に尾高型のクをあえて頭高型のマで行こう、など)についてはディレクターが適宜、指示を出す。誰よりもボキャブラリー豊富でなければ務まらない重要な役職であり、文化としての言葉を世に送り出す担い手としての責務があるのだ。しかし昨今はそんな意識が希薄になってきているのか、映像メディアの持つべき気概と言おうか、矜持といったものが見えなくなっている。歴史を知らない、言葉を知らない人間が番組制作に携わっている。これは猛省すべきことだ。そして今回ニュース記事への書き込みで多く見られるのは、悪意があるものではないのだから芸人を責めるのは酷だという論調。だが自分はそういった意見には同調できない。第一に、民族の名称を動物に例えてネタにするというのは侮辱的な表現であり、差別的であるという思考は一切働かなかったのであろうか?当人は「勉強不足」であったと話しているようだが、社会倫理的なコンプライアンス云々がこれほど声高に叫ばれている今日、あまりに不用意で、あまりに想像力に欠けていると言えないだろうか。「知らなかったから」だけで済まされることなのだろうか。現に、彼の発言で深く心を傷つけられた人は居るのである。知らないことは罪深い、だからこそ知性のある人間はより注意深く、より慎重になるべきだと思う。相手に対して投げかける言葉が一体どう受け止められるか、どんな影響を及ぼすかについて、もっと真摯に、思いやりの精神を持って考えるべきだ。


今から20年ほど前のこと。僕はたまたま立ち寄った書店である一冊の本を手に取って言葉を失った。タイトルに「ロンパリウサギ 人生すべて思いどおり」とある。視野が広い、特別に選ばれたロンパリウサギは様々な物事を俯瞰して見られるのだ―という趣旨で紹介されていた。しかし、「ロンパリ」は斜視に対する蔑称であり、そのキャラ設定は作者が独自に後付けしたものである。本来、この言葉に尊敬の念は一切込められていない。古い言い回しであり、僕自身もこの言葉を投げかけられた経験はないものの、耳にするたびに深く胸を刺されるような思いがしたものだった(唯一、実兄が幼少の頃の僕を「ばかぱり」と呼んでいたことを覚えている。当時は深く考えなかったが、バカのロンパリという意味だったのだろうと思う。兄は生来そういう人間だし、昭和とは、得てしてそういう時代だったのだ)。この本が世に出てしまったことは作者の無知が根底にあり、それを許した出版社の重大な過失である。僕は内心(きっとこれは問題になるはずだ、出版差し止めになるだろう)と感じたものの特に世論の槍玉に上げられることもなく、ひっそりと絶版になっている。作者が追及を受け何がしかの声明を出したという記録もない。表現者としてあまりに無責任ではないか?


ジュニア時代にある18禁アニメのアフレコに参加した時、過激な描写の中で「責め役」の男性キャラがもはや恍惚を超えて狂気の表情を見せる画のプレビューを全員で見ている際、皆口々に「すげえよなこれ」とか「完全にイッちゃってるよね」などと言う中で主役の男性が笑いながら「それにコイツ、ロンパっちゃってるし」と言い放った。誰一人何を咎める事もなくその場は過ぎて行ったが、自分はいつまでもその言葉が耳に残った。(そうか、まだそういうワードを使う人がいるんだな・・自分は言葉の送り手なのだ、プロフェッショナルなのだ。表現として相応しくない言葉を軽々しく使うのはやめよう、美しい言葉を使おう)

自分は心の中で、そう静かに誓った。その時代時代によって一時的に流行るような言い回しは好きじゃないし、それを何の疑いもなく多用するような役者は信用できない。偏った考えだと言われればそれまでかもしれないが、自分はその信念を曲げずに生きて行こうと思う。


「知らないこと」がこれほどまでに恐ろしいのだということを、誰もがもっと自覚しなければならない。そして言葉が相手に与える心理的影響を、もっともっと考えるべきである。


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