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執筆者の写真Ryusaku Chijiwa

加藤治さんのこと。

更新日:2021年7月17日


2019年2月13日


(※2021年初夏、加筆、訂正を加えています。)


下の画像は自分が組合員である日俳連(日本俳優連合)が昨年1月に発行した会報(日俳連ニュース)に掲載されたものを個人的にスクショしていたものですが、2017年12月18日、長らく日俳連の監事を務められていた加藤治氏がお亡くなりになられています(81歳没)。プロフィール、出演歴はWikipedia等々で検索して頂ければわかると思いますが、俳優、声優のバイプレーヤーとして長年に亘り活躍されてきた方です。キャリア豊富ではありながらも完全なる主演作がなく、スター声優というお立場ではなかったとはいえ、没後約1年2か月を経ても、ネット検索やSNS等でも一切、逝去の一報が拡散されていないというのは(活躍をされた時代が古いとは言え)さすがに不自然ではないのか、組合員向けではあっても会報で公式に伝えられていることでもあり、(このまま誰の口からもその名前が出ずに情報が更新されないというのは忍びない)という思いから、ここに書き記しておこうと思います。 大先輩である加藤さんと自分とは、ほんの3年間ほど関わったことがあるのみでした。1991年秋、専門学校二年生だった自分は、自己表現の新しい可能性を求めて(当時渋谷にあった)東京演劇学院の声優科に入学した。高校を卒業してすぐ、憧れのプロドラマーを目指して音楽の専門学校に身を投じたものの、高校時代に地元ローカルのコンテストで一度入賞し学生バンドを3つほど掛け持ちしただけでいい気になり、井の中の蛙だった己の実力の無さを嫌というほど思い知るところとなり、すぐさまドロップアウト。改めて音響系の専門学校に進みながらもやはり表舞台に立つことは叶わないという思いを深め、音楽以外で何か勝負できるものはないかと模索する中で見出した、いわば次なる挑戦でした。 だから自分は、音楽学校の同じ轍は二度と踏むまいという強い思いを持ってコツコツと努力を重ねた結果、本格的なデビューが33歳とかなり遅咲きでしたが声優として世に出ることが叶ったのでした(途中で投げ出すことだけはもう二度とするまいと誓ったので)。その自分の役者としてのスタートが、この東京演劇学院でのレッスンでした。加藤さんをはじめ講師陣は同じくベテランの北浜晴子さん、橋本晃一さん、新田三士郎(小林通孝)さんに加え、ムービーテレビジョン(現・ブロードメディアスタジオ)のミキサーの山田太平さんという硬派(?)な顔ぶれ。恐らくは、声優科の創設にあたりその長としての立場にあった加藤さんのコネクションで集められたのではないかと思われます。レッスンは加藤、北浜両氏を軸としてその他の講師陣からも声優を目指す上での「基礎の基礎」を学ばせていただきました。ほんの3年ちょっとではありましたが、朗読会の開催があったり特別講師の講義(キートン山田さん)があったり、卒業時(結局自分の在学期間だけで声優科は消滅することになってしまった)にはボイスサンプルの収録もあり、刺激的でかつ、自分にとって様々なカルチャーショックを受けた時期でありました。ただ、こうして当時の思い出を語ろうとする時、加藤さんの記憶は最も薄いのです。皆で「お母さん」と呼び親しんだ北浜晴子さんにはとても可愛がっていただいた反面、加藤さんはレッスンが終わると課外での生徒との交流は「情が移るから」と嫌い、食事はもとよりお茶の席をご一緒することも皆無でした。若い受講生たちは役者としての鍛錬は当然ながら、声優業界の様々な話を少しでも多く聞きたいと渇望しているもの。ある年のクリスマス、渋谷駅の近くにあった「ピサロ」というハンバーグ屋さんに加藤先生をお誘いすることに何とか成功し、期待に胸を躍らせて夕餉の席をご一緒したものの、食事を終えるとすぐ席を立たれてしまい、皆でがっかりしたのを覚えています。日頃のレッスンにおいても、「この声優科を将来プロダクション化してお前たちを所属させる」と言ったと思えばその翌週にはそんな発言は無かったことになっていたりで戸惑うことも多く、学校側とも指導方針を巡って次第に折り合いが悪くなっていったように見えました(その結果、声優科が短命に終わったのではと個人的には推察していますが)。ただ一度だけ、加藤先生が出演する劇場用アニメーション「走れメロス」のアフレコに特別に参加させてもらうという貴重な機会に恵まれたことがあって、単なるガヤ要員(台詞の無い、その他大勢)ではあったものの、東京テレビセンターでのアフレコは主要キャストのほぼすべての皆さんと一緒にマイクの前に立つことが出来たのでした。エンドクレジットは加藤先生がうろ覚えの生徒の名前を伝えてしまったためか千々和竜と表記されていますが、これは間違いなく自分。劇場で小田和正さんの主題歌が流れるこのエンドロールを目にした時は不思議な気分でした。時は1992年の夏―こののち、数年のブランクと紆余曲折を経て声優事務所に所属するのは2005年のこと。東京演劇学院の門を叩いてから14年後、実に35歳の時でありました。

(※1998年に東京アナウンスアカデミーに入学、卒業時のプレゼンで合格して同人舎プロダクションに入所しましたが、養成所ではなく小林修社長を囲んだ勉強会「たまごの会」に参加していただけで預かり所属とも言えない簿妙な立場でした【2002年頃から事務所公式サイトにプロフィールは掲載されていましたが】。2003年4月にマウスプロモーション附属養成所に入学、2年のカリキュラムを終え正所属になったのが2005年4月のことでした。)


加藤先生が日俳連で監事を務めておられることは知っていたので、いつかは再会できる機会が来るのではと思いながら(事務局にはイベントの際に顔を出すだけでしたが)それも実現することはないままでした。その訃報についてもどこかひっそりと、正式な発表があるわけでもなく、時の流れに委ねて・・・というのは、もしかするとご本人の意向であったのかもしれないと想像すると、少し不謹慎ではあるけれど(あの気まぐれな加藤先生らしいな)、と思ってしまうのです。「美味しんぼ」の富井副部長のあまりにデフォルメが過ぎた演技は少し苦手だったけれど、1970~80年代のアニメ作品において恰幅の良い太く響く声で実に様々なキャラクターを演じておられました。俳優として、声優として、間違いなく加藤治氏は文字通りの「名バイプレーヤー」であったことを、ここに記しておきたいと思います。


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