ちぢぃーのシネマレビュー001            「セッション」(2014・米)

最終更新: 2019年4月30日

2019年4月29日


日本公開は2015年4月。当時SNSのバンド仲間の間でかなり話題になっていたので、よし、そのうち見てやるかと思いつつずるずるとその機会を逸してしまい、このほど実に4年遅れ(!)で鑑賞(日本語吹替版)。以後、こうした感想はカテゴリーにまとめて不定期更新の映画レビューということにしようと考えました。あくまで極私的な感想を書きますが、作品鑑賞の一助になればと思います。


ジャズが題材の映画である。しかもドラマーが主人公であるという。バンドマンとして、これは見なければならない。劇場で予告編だけは見ており、何とも激烈でシビアな描写であることはわかっていたので、ある程度の予想をしつつ、それ以外の予備知識は入れずに鑑賞。舞台はアメリカ最高峰の音楽学校、シェイファー音楽院(バークリーがモデル?)。その初等クラスの生徒であるドラマーのアンドリューと、院内でも最高の指導者といわれるフレッチャーとの師弟関係を軸にドラマは進行する。偉大なドラマーになりたいとの夢を抱くアンドリューだが、主人公ながらどこか自信なさげで覇気がない。映画館で見かける売店の女の子に声を掛けるのもままならぬ、内向的な青年に映る。しかしそれがある時、フレッチャーが教鞭を執る最上位クラスに引き抜かれたのをきっかけに、内なる情熱と才能が覚醒する。罵詈雑言を浴びせ時には暴力を振るうことも厭わずに生徒を追い詰めていく鬼軍曹のようなフレッチャーのスパルタ式の指導を受けて、憑りつかれたかのようにドラムに向かうアンドリューの表情は次第に狂気を帯び、親族や恋人も離れていく。物語は、こうして常に張りつめた緊張感をもって進行していく。師の厳しい指導のもと、その弟子が優れたプレイヤーに成長していく硬派なサクセスストーリーが描かれていくのか・・・と思って見ていると、どうも様子が違う。フレッチャーの、収まることのない怒りの根源は何なのか。本当に素晴らしい才能は、こんな形でしか引き出されないのか。そんな重圧に耐えながら奏でられる音楽が、本当に聴衆を楽しませることが出来るのか。現実と乖離した描写、そして予定調和を常に覆す展開。そう、これは音楽ドキュメンタリーではない、ジャズを題材に壮大に誇張されたショーであり、マンガチックな寸劇なのだと理解すれば、これほどに計算されたエンターテインメントはなかなかお目にかかれない。緊張感に飲まれることなく物語の荒唐無稽さを笑い飛ばして、流れに身を委ねて楽しめばいいだけなのだ。そう思った瞬間、フレッチャーの怒りはマゾヒスティックな快感へと変わった。追い詰められたアンドリューはついに思いを爆発させてフレッチャーにつかみかかり、その結果学院を追われることに。すべてが無になり、空虚な日々を送りながらも、平穏な青年の姿を取り戻すアンドリュー。しかしそうなっても物語は観客を裏切り、さらにまた裏切って進んでゆく。まさか!と思わせるラストのステージの展開、そして怒涛の演奏。これこそが予告編のキャッチコピーにあった「映画史を塗り替える9分19秒」、しかし・・


映画はその人の人生を映す鏡である。作品を鑑賞するとき、観客は自身の人生経験や価値観に照らし合わせて咀嚼し、理解し、受け容れようとする。自身はジャズを演奏したこともないし、バンドに所属したこともない。だが大所帯のビッグバンドのアンサンブルは演奏者の呼吸が、リズムが、そして修練の成果とが結実して初めて完成する総合芸術であり、自分はそれがアマチュアであれプロであれ、ビッグバンドやオーケストラに所属する演奏者には同じプレイヤーとして尊敬の念を抱いている。「彼ら」は努力しているのだ。他者より秀でた演奏をするには厳しい研鑽が必要であることに異論はない。ただ楽しく、面白可笑しくノリだけで演奏した音楽ほど退屈なものはない。これは音楽に限ったことではなく、役者の演技しかり、表現者のパフォーマンスを素晴らしいものにするための努力は、並大抵のものではない。そんな思考を持っているので、この映画を見てフレッチャーが団員を叱咤する描写に嫌悪感は覚えない。多かれ少なかれ、バンドメンバー募集のオーディションで、アフレコの収録スタジオで、要求された表現が出来ずに追い詰められて狼狽えた経験はある。ドラムのフレーズも台詞も、自分の身体から出てくるもの。それを、違う!もう一度!と罵声を浴びせられるのは恐怖でしかない。答えはどこにある?何が正解なのか?気は動転し、冷静な判断能力は失われている。結果、出てくるものは自分の本当の実力だ。しかし、そうやって相手を極限状態まで追い詰めて才能を引き出そうとするのが最善の指導方法かと聞かれれば、答えはノーだ。芸術を極めんとするにはあらゆる「甘さ」を排除しなければならないことは理解するが、フレッチャーのやり方は誇張し過ぎている。正常な感覚で観れば、誰もが嫌悪感を覚える。しかしそれこそが監督の、脚本家の思惑なのだ。そこを勘違いしてしまうと、見終わった後も清々しさは感じられない。だからこそ、この映画をマンガチックな絵空事と割り切って見るべきだと思うのだ。バンドが優れた演奏をすることも、それを聴衆に届けることも、アンサンブルの他のパートもすっかり置き去りにして(映画としてはダメなんだけど)、物語はフレッチャーとアンドリューのやるか、やられるかの対決のみに主眼が置かれてクライマックスになだれ込んでいく。一体、この二人はどこまでやり合うつもりなんだ?よし・・・それならばこちらも両者のお手並み拝見、最後まで見届けてやろうじゃないかという気になる。エンディングに二人の行く末は描かれず暗示されるのみで、その先は観客に委ねられる。フレッチャーの「お前、やるじゃないか」という表情が暗示するものは、アンドリューの輝ける未来ではない。偉大なドラマーの歴史は、ようやくその一歩を踏み出したのだ。ただ惜しむらくは、アンドリューの微笑は自分としては要らなかったかなあ。。


僭越ながらアマチュアドラマーを30年以上続けてきたので、細かいツッコミどころがなくはない。楽器を演奏するシーンはどの役者も映像がうまくシンクロしていないのが残念で、スタント以外の場面で本物のプレイヤーは演技者としては起用されないんだなと感じた。クライマックスのドラムソロは吹き替えとはいえどもどこか凡庸だったし、もっと派手にしても良かったかも(これは役者への配慮?)。また、ドラム(スネア)のヘッド(皮)は本来、大の大人が乗っても破れないもの。ましてや素手で破るなんて描写は初めて見た。マンガチックなデフォルメなのだと割り切れば確かにこれ以上に象徴的な描き方は見当たらないわけで、そう考えるとうまいなとは思うが。演奏が過熱して手から血を流すというのも、マメを作ったりスティッキングで怪我をしたりするのは不自然な力が入ってしまっているからで、本来優れたプレイヤーにとって絶対にあってはならないこと。また、速いパッセージでシンバルレガートが出来ないところに檄を飛ばして「もっと速く!」と要求するシーン、疲労で消耗していればテンポキープはさらに困難になっていくし、もともと鍛錬が足りず出来ないものが叱咤されてその場で出来るようには絶対にならない。バディ・リッチを信奉しているならそれ風のリック(フレーズ)が出てくれば良かったけど、そこまで気は回らなかったのか。ラストのステージ、アンドリューが練習していなかった「アップスウィンギン」の演奏、落とし穴としてドラムのキメが多かったとしてもアドリブ力でそれなりに対応出来なかったのかなど、枚挙にいとまがない。何より、邦題の「セッション」、残念ながら的確ではないね。原題の「WHIPLASH」を生かして欲しかったね。・・・と、あれこれと揚げ足を取ってみても、面白かったことに変わりはない。映画を見終わって、これほど色々と考えを巡らせたのは久しぶりだ。やっぱり、自分に演技と音楽が密接なものだからなのかな。


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