ありがとう。
更新日:2022年11月27日
2022年11月24日
か細いながらも呼吸を続けている母を見守って、朝を迎えた4時50分ごろ。始発の電車が5時12分だったので、とりあえず帰宅して仕事に行くかなと思った矢先、その呼吸がいよいよ力を失くしてベッドサイドモニターのブザーが繰り返し鳴る(心拍数の低下)。夜勤の先生を呼ぶが何の処置をするわけでもなく、いよいよその時が来たという表情で、ご家族を呼んでくださいと告げられる。耳元で名前を呼びかけるが、次第に反応も無くなってくる。
母はとうの昔に言葉を発することは出来なくなっているが、大きく、ゆっくり、口を開けてこちらに何か伝えようとしているように見えた。それは「あ り が と う」と――。
5時22分、心肺停止。母の最期を看取ったのは姉と自分の二人ということになった。13年、長い長い闘病生活だったけれど、母はようやく苦しみから解放されることなったのだ。よく頑張ったね、長かったね、お疲れさま。父と姉の子どもたちも駆け付けて、母の長年の苦労をねぎらった。話には聞いていたけれど、こうした状況にあっても病院のスタッフは慣れたもので、淡々と、事務的に搬送についての段取りをして、部屋をすぐさま片付けるよう指示がある。悲しみに浸っている余裕などなく、あっという間に荷物が整理されていく(その手伝いもどこか急かすような印象)。何年もお世話になったのに、親しく接してくれていたと思ったのに、といった情緒的な感情をここでは排しておかないと、こちらも当然だがスタッフの方々も身が持たないのだろうなとぼんやり考えながら、姉が手配した葬儀社のストレッチャーに乗せられた母を病院の出口で見送る。7時過ぎにはもう病室の名札は取り去られていた。何ともあっけない。一緒にお見送りをしてくれた夜勤の看護師さんたちに「お世話になりました」と挨拶をして自分は一旦帰宅することに。この瞬間を境にして、幾度も足を運んだこの病院へ来ることはもうないのだなと思うと、何とも言えない虚しさを感じた。
写真は小学校入学時の自分と母。母はまだ若く、美しかったのだ。未熟児網膜症のため斜視である自分の目線は真っ直ぐカメラを向いている。いつしか写真を撮られる時には自然と目線をファインダーから外す癖がついて、宣材写真を撮る時も違和感のないように自ら修正をしているけれど、これが自分の本来の視線の角度である。ジュニアの頃は色付きレンズの眼鏡をかけたり色々と気にして試行錯誤していたものの、40代を過ぎてから人と話す時は、むしろ極力この目線で話すようにしている。細目なので気づかれないことも多いけれどね。
